
自己紹介
ボイスカルチャージャパンの代表をしています、加藤 寛理です。
よく「名前、なんて読むの?」と聞かれます。今までで1回しか読まれたことがありません。ネットワークビジネスの勧誘のお姉さんによるあてずっぽです(笑)
寛理と書いて「ひろまさ」と読みます。
理(まさ)が読みにくいと思います。元大リーガーの吉井理人投手が同じ読み方をします。
1回では読めないので、高校卒業後からひろりさんと呼ばれています。
これから仲良くしてくださる方は、ぜひひろりさんと呼んでください。
経歴
1983年12月29日生まれ 滋賀県出身 近江商人発祥の地域で育つ
彦根東高校→AN MUSIC SCHOOL→プロミュージシャン→ボイストレーナー→ボイスカルチャー
音楽は小学校のバイオリンから。声は18歳から学び、植村典生師に10年師事。独立後はボイストレーナーとして活動しつつ、2017年よりNLPを主体とした心理学も専攻。発声のトレーナーとメンターとしてダブルメジャー形式で事業を展開する。
2019年より、ボイスカルチャーとして活動。
幼少期

実は、生まれたときの名前は寛理ではありませんでした。幼稚園のときに現在の名前になりました。
変えた理由は、姓名判断です。母が生まれる前に50個ほど姓名判断に基づいて考えていたようで、寛理は確か3番目の候補でした。父親がどうしても使いたいという漢字を含む2番目の候補の名前を出生名に採用したようですが、その名前で懸念している部分が顕著に出始め、相談の結果、改名することにしたと聞きました。

名前を変えると告げられた園児の僕は「また元の名前に戻す?」と聞きました。今でも明確に憶えています。
名前が急に変わったことで、翌日から、別の名前で呼ばれ始めます。わずか4〜5年ではありましたが慣れ親しんだ名前から、別の名前で呼ばれる…小さかった僕にとっては、ちょっと大きな意味だったのかもしれません。自分って誰なんだろう?という自問が多くなりました。
このときからかもしれません。自分自身に問いかけるという習慣がついたのは。自分は誰なのか…大きくなってから1度は思うであろうこの問いに、名前が変わったことがきっかけで、小さい頃から自分との対話を大事にしてきたように思います。
ちなみに、家庭裁判所の認可のもと、中学1年生で戸籍上も正式に寛理になりました。
青年期

小1から高3までの12年間、剣道をしていました。中学のときは団体で全中へ行った強豪校でした。下校時間も無視して長い時間練習するのは当たり前…みたいな風潮が許される世代でしたが、まぁ長かったです。
高校は打って変わって進学校に進学したため、校則でほとんど練習ができない。強豪校の3分の1の制約。顧問の先生が自分たちでいかに少ない時間の中で質の高い練習をしていくかを上手に導いてくれました。ほんとあと1歩のところでIHを逃したほどの成績を修めることができたのは良い経験でした。
楽しくできた小学校、量をこなした中学校、質で勝負した高校…それぞれの良さを知ることができ、非常に恵まれた環境だったと思います。
また、勉強も決しておろそかにはしませんでした。勉強量の多さが、大人になってあらゆるところに生かされました。文武両道の道が、発声のトレーナーとメンターというダブルメジャーを体現するヒントにもなったように感じます。
ミュージシャン時代 18歳〜
高校卒業後、半年間の浪人を経て、音楽学校に行きました。反抗期ではありましたが、音楽活動を通じて世救い・人救いがしたいと思うようになりました。
プロミュージシャンになるために、会社員として働きました。運送会社の営業、シティホテルのフロント、ブランド品の販売など、職種でいうと50ほどは経験させてもらったと思います。
会社にどう利益が出るか、そして社会にどう貢献できるかなど考えながら仕事をこなす傍ら、終業後に積極的にトイレ清掃を行うなど、人がやりたがらない仕事を積極的に行うことを信条に、奉仕に生きることを心がけました。
27歳でプロミュージシャンに転向しました。思い出に残っているのは、CDを作ったこと。CD-Rに焼いておわり〜といったものではなく、CDショップできちんと包装されているものです。何もないところから、作詞作曲、レコーディング、編曲、ジャケット制作、プレス、キャラメル包装まで、実際に現場で行なわれていることを全部1人でやりました。1人でやれるという自信と、1人でやる大変さの両方を知れたのは大きな財産でした。
また、この頃から、ラジオ業界に携わるようになり、人に伝えること、伝わる話し方についても考えるようになりました。日本で最も老舗のインターネットラジオ局の運営に携わらせていただけたのは、大きな財産になったように思います。
ボイストレーナー時代 28歳〜
結婚を機に、拠点を東京へ。音楽活動よりも声の研究をする楽しさから、ボイストレーナーに転向することにしました。
どうして音程が上手に取れないのか、どうして先生のように上手に歌えないのか。悩みながら答えを探すうちに、発声教育の歴史や理論を知り、いかに今の指導が雑かを知ることになりました。歌の師匠である植村先生はそのことを知っておられましたが、学ぶにも関西在住の方なので、独自に研究や論文等で学びました。
声は声帯筋とその周りの筋肉による運動で生まれること、発声に関連する筋肉にはそれぞれ役割分担があることを、いかに小学生でも分かりやすく教えることができるかーそんなテーマで日々研鑽を積みました。
音程を取るには、音程をとるときに使う筋肉があり、その筋肉が上手に使えるようになる訓練を積めば、音程は取れるようになるー筋肉を使用するという点で同じであるスポーツの業界を参考にしながら、発声の理論にも当てはめて整理を行いました。
心理学の専攻 34歳〜

声の職業に従事するにあたり、精神面の重要性も感じていたことがきっかけで、心理学を専攻することにしました。大学等で教えられている臨床的なもの、病院勤めのできるものではなく、実践的に使えるものを探しました。
そして、同じ川崎在住の木下山多さんと知り合い、ニュートラルベースNLPを学び、またヒプノセラピーの日本のパイオニアである田口圭二さんとも知り合い、NLPヒプノセラピーを学びました。
2人の師匠に共通したのは、いわゆるメンタルを向上させようという感じではなく、穏やかな状態であることで、最も充実した生き方ができ、また望ましい結果も出るという教えでした。
これまでの人生、テストでいい点数を取ること、音楽で有名になることなど、必死に生きて追い込む人生だったのが、そこまでしなくても何も問題ないことに気づくことができたのは大きかったように思います。
また、心の学びを通じて、声の筋肉を充実させても音程が取れない原因も判明しました。そうして、発声診断書を開発することに成功しました。
ボイスカルチャー 36歳〜
心理学の専攻をする中で、自分の提供しているボイストレーニングが他とは全く異なるものであることを明確に区別したいと思うようになりました。心理的観点を含めた指導が、かつて17世紀に職業として存在したボイスカルチャーの手法として似ていることから、肩書きをボイスカルチャーにすることにしました。
ボイスカルチャーという言葉自体、僕が一般的に出回っている書籍等で見かけたのは、武田梵声先生の本のみです。全く知られていないところから、どのように表現していくのがよいか、試行錯誤を繰り返しました。
奇しくもボイスカルチャーがいた時代、ギリシャを中心にリベラル・アーツがあります。現在では現代版リベラル・アーツとして、今の時代に必要な科目が追加されて実施されています。ボイスカルチャーも同様に、現代版ボイスカルチャーということで、当時は知り得なかった心理学的見解も入れ込んで発展させていくきっかけを作ろうという結論に至り、ボイスカルチャージャパンを設立するに至りました。